作 いつきつくる

短編小説

大人の二人DSC_0513.jpg

「石」

「いってらっしゃい」妻の舞子が笑顔で見送る。俺は会社に行くために家を出る。20メートルほど先の曲がり角を曲がりきるまで、舞子は玄関先で見送ってくれている。笑顔で手を振る舞子を見ると、今日一日の仕事を頑張れる気がする。

家から最寄りの駅までは、およそ15分の距離を歩く。曲がり角を曲がると団地がある。その団地は3棟あるが、鉄道会社の社宅だということを最近知ったばかりだ。団地を抜けると大きな公園がある。山の家公園という公園だ。その公園を通り抜けるのが近道で、自動車が走ってないので歩きやすい。木や池を見ながら歩くのも、ちょっとした朝の癒しだ。

側溝の落ち葉を見ながら早足で歩いていると、何やら光る物を見つけた。その光る物がなんだろうと思い、しゃがみ込んで見てみると、石のようだったので拾ってみた。それは、やっぱり石で、なんだか不思議な色をした石だった。直径五センチメートル程の大きさで、つるつるしていて、牡蠣の殻のような青緑色っぽい光を放っていた。

普通だったら、そんな石を拾っても、すぐに捨ててしまうのだと思うのだけど、何故だかこの時は捨てる気になれず、手に取った石を上着のポケットに入れて駅まで急いだ。

電車はいつものように混んでいた。俺はつり革につかまりながら、ポケットから取り出した石を見ていたけど、電車が大きく揺れたときに落としそうになったので、すぐに上着のポケット戻した。

三十分程すると会社の最寄りの駅に着く。そこから、会社まで十五分ほど歩く。駅を降りるとすぐに、アーケードの屋根のかかった寂れた商店街がある。いわゆるシャッター通りだ。そこを通り抜けてしばらく歩くと、幅の狭い四階建ての茶色く煤けたビルが出て来る。そのビルの四階部分が、俺が勤めるデザイン会社の事務所となっている。四階まで階段を歩いて上るのだけど、これがけっこう大変なんだ。

事務所の扉を開けると、すでに何人かの若手デザイナーが仕事をしていた。中には徹夜の者もいるようだ。俺はとりあえず「おはよう」と言うが、いつものように、ボソボソとした挨拶しか返ってこない。俺は自分の椅子に座って、少し伸びをしてから、机の上に置いていたパンフレットのゲラ刷りを手に取った。これは新しく発売される若者向けの化粧品のパンフレットだ。表紙のモデルには秋葉系の女性アイドルを起用している。

俺の勤める会社はデザイン事務所と言っても、化粧品会社の子会社として、広告、販促、イベントなどを一貫して行っている会社だ。俺はそのデザイン課のリーダー。言ってしまえば係長だ。化粧品のチラシやポスターをデザインするのが主な仕事だ。

うちのデザイン事務所の特徴的なところは、デザイナーもスーツにネクタイを義務づけられているところかな。これは社長の方針。このことに特に不満はない。

美術大学を出て新卒で入った会社で、もう十五年になる。子供の頃から絵を描くのが好きだった。その美術センスを活かしてデザイン事務所に入社したが、グラフィックデザインと美術というのは、また違ったジャンルだということを思い知らされた。最近では、チラシやポスターのデザインすることよりも、取引先との打ち合わせや企画会議に出る事が多くなり、製作は部下や後輩に任せる立場になったが、それが意外と自分に向いていることを知った。正直、デザインセンスに関しても、後輩達の方が、俺よりも優れているのではないだろうか。

朝からパンフレットの原稿をチェックしていたら、知らない間に昼になっていた。

「君野さん。今日も愛妻弁当ですか?」同じチームの部下が言う。俺は適当に頷いて、舞子の作った弁当をカバンから取り出した。課長や部下達が、外に食事に出かけるのを横目に、俺は、弁当の包みを開けて、そそくさと食べ始めた。

 食べ終わると、上着のポケットの中から石を取り出して、それを机の上に置いた。

「おもしろい石だなあ」俺は、わざわざ声に出して言ってみた。面白い石だけど、ただの石だ。ルビーとかダイヤとか、そういう宝石でないことは明白だ。色や形、匂い、奇麗ではあるが、でも、ただの石だ。しかし、ただの石の筈なのに、どこか魅力がある。その魅力はなんだろうかと考えてみる。わかったぞ。この石を見ていると懐かしい気持がこみ上げて来るのだ。安堵感や優しさ包まれるような感覚が湧いて来るのだ。きっと、それが、この石の魅力だ。

石をよく見ているうちに、何か文字のような物が彫られていることに気が付いた。石の先端の下あたりだ。尖ったもので削ったのだろうか。顔を近づけて目を凝らして、ゆっくりと、その小さな文字に焦点を当てて見た。

なんて書いてあるのだろうか。わかったぞ。「AI」だ。これは「AI」と書いてあるんだ。石に彫られている文字は「AI」に違いない。「AI」は何を意味しているのだろう。イニシャルだろうか? 石は俺に、新たな興味を抱かせた。

「何、その石?」
突然、声がしたので、少しビクッとして後ろを振り向くと、同期入社の営業の佐々木が、にやついて立っていた。

「何、その石」

「ああ、これはただの石だよ」

 俺は石を佐々木の顔の前に差し出した。

「朝、拾ったんだよ。きれいだろ」

「ふーん、ちょっと見せてよ」

佐々木はその石を、俺から取り上げると、数秒見つめて「まあ、たしかにきれいだけど」と言い、たいして興味を示さずに、すぐに、その石を俺に返した。

佐々木は何かを企んでいるような顔つきで再び、にやっと笑うと「ところで、今日、仕事が終わったら呑みに行かないか。面白い店を見つけたんだ」と言った。

会社が終わると、佐々木は小さなキャバレーに俺を案内した。

駅の高架を渡って会社の反対側に出ると、繁華街がある。
反対側のシャッター通りとは違って、このあたりは夜になると仕事帰りのサラリーマンなどで、それなりの賑わいをみせている。その賑わっている繁華街の裏通りの目立たぬ場所にそのキャバレーがあった。こぢんまりとした小さな店だ。店の扉も飾り気の無いもので「キャバレー」と書かれた小さな看板が吊り下がっている。文字通り「キャバレー」だ。

確かに面白そうな店だった。

「ここは小さい店だけど、なかなか良い店なんだよ」佐々木は嬉しそうに言った。

店の扉を開けると、店構えとは裏腹に、金色の派手なジャケットを着た店員の男が現れた。その店員は意外にも、キャバレーの店員とは思えないような爽やかな笑顔だった。俺たちは奥のテーブル席に案内された。

佐々木が先に、ソファーに座ると、俺は少し間を空けてソファーに腰を下ろした。ふわっと、柔らかいソファーの感触が贅沢な気分にさせてくれた。流れていた音楽は沢田研二の「勝手にしやがれ」だった。懐かしい曲だ。

「いつもの娘を頼むよ」佐々木は店員に言った。どうやら、佐々木はこの店の常連のようだ。

しばらくして、ホステスが二人やってきた。赤いドレスを着た背が高くて痩せた女と、緑っぽい色のドレスを着た、スタイルの良い女だった。

「あ、佐々木さん。いらっしゃい」

「ジュンコちゃん、会いたかったよ~」ジュンコの登場で、佐々木の顔はだらしなくにやついた。

ジュンコは佐々木の隣に座り、もう一人のホステスが佐々木と俺の間に座った。

ジュンコは三十歳くらいだろうか、化粧は濃いが落ち着いた雰囲気の美人だった。佐々木の好みのタイプだ。佐々木は気持ちが舞い上がっているようで、ジュンコに満面の笑顔を振りまいていた。

「こちらは、会社の友達の君野君」

 佐々木が紹介すると、俺は笑顔を作って、軽く会釈をした。

「そして、こちらがジュンコちゃん、そして、こちらは?」

「はい、先週から来ることになりました。ミサトです」スタイルが良く、整った顔をしたミサトは、笑顔でちょこんとお辞儀をした。整った顔からこぼれたその笑顔は可愛かった。

「良いねえ~、ミサトちゃん」佐々木が場を盛り上げるように言った。

「さあ、乾杯しましょう」

 ジュンコの一声で、俺たちは、それぞれのグラスを手に持ち、乾杯をした。

俺は、このようなホステスのいる店で呑むのは慣れていなかったため、最初は、どんな会話をすればよいのか戸惑ってしまっていたが、ミサトが無邪気に話しかけてきたので助かった。

「この店初めてですか?」

「あ、うん」

「お酒は何が好き?」

「ビールかな」

ミサトは二十代前半くらいの歳だろうか?笑顔が可愛くて、人懐っこい態度は好感が持てた。

俺はどちらかと言うと人見知りする性格なのだが、ミサトのような人懐っこい女だと、リラックスして話せる気がする。

「君野さんは独身ですか?」

「いや、結婚しているけど」

「子供さんは?」ミサトは矢継ぎ早に質問をしてきた。会話を盛り上げようとするミサトの配慮が感じられる。

「高校生が一人と中学生が一人」

「へ~、そんな大きなお子さんがいるような歳には見えないけど、おいくつですか?」

「三十八歳」

「え、うそ、もっと若いと思っていました」

「ほんと?そう言われると、ちょっと嬉しいなあ。君はいくつ?独身?」

「え~、結婚しているように見えますか?」

「見えないよ」

 ミサトは、まるで無邪気な少女のように、はにかんでみせた。

「わたし?いくつに見えます?」

「二十三歳?」

「え!?嬉しい、もっと、いっていますよ」

ミサトは俺の耳元に口を近づけると、小さな声で「内緒よ。二七歳なの」と、言った。突然、顔を近づけてきたので、俺はドキリとした。

「それでは、お待ちかねのショータイムの時間がやってまいりました~」

 金色のジャケットを着た店員が司会者となり、店の奥にある小さなステージの脇で喋り出した。

「それでは、今日はマリリンちゃんによる、フラメンコダンスショー!拍手でお迎え下さい~」

マリリンと紹介された金髪の日本人ダンサーが、セクシーな衣装で登場すると、ステージの横に座っていた長髪の男がギターを弾き始めた。

俺は、そのショーが気になり、ステージに注目すると、ミサトも俺に合わせたかのように静かになり、ステージの方を見た。

ダンサーはギタリストの演奏に合わせてフラメンコを踊り出したが、それは、普通のフラメンコとは違い、少しエロティックなダンスだった。

「何、これ。おもしろい」俺は少し興奮して叫んだ。

ダンスはエロティックでありながらも、本格的なダンスだった。俺はそのダンスに見入ってしまい、しばらくダンスを眺めていた。ミサトの方を見ると、ミサトもそのダンスに見とれていた。

俺は、ミサトに顔を近づけて「君も出るの?」と冗談まじりで聞いてみた。

「わたしは出ないわよ」と、ミサトはけらけらと笑った。

 十分ほどのショーが終わると、また店のスピーカーから音楽が流れ出した。今度も「勝手にしやがれ」だ。この曲ばかりだなあと思った。

佐々木の方をちらっとみると、奴は楽しくやっていた。佐々木は満面の笑顔をジュンコに振りまいて、何やら夢中になって話をしている。きっと、いつも、こうなんだろうな。佐々木が本当に楽しそうで、生き生きしているから、これはもしかしたら、彼女に本気なのかもしれないなと思った。そう思うと、少し愉快な気持になった。

俺は、自分の生い立ちや子供の頃の話までミサトに話した。酔うと俺は口数が多くなる。ときどき、余計なことまで話してしまうこともあるから気をつけなくてはならない。飲み屋で若い女が横に座り、やさしく接してくれたなら、大抵の男は楽しくなってしまうだろう。でも、こういう胸がドキドキするような気持ちは久しぶりだ。独身の頃に戻ったような。ミサトは話しやすい女で、彼女とは気が合うと感じる。この熱い気持ち。やっぱり若い女っていいよな。結婚をしてから、妻意外の女と楽しく会話するなんて、ほとんど無かったし。

そう思った途端、妻の舞子の顔が頭の中に浮かんだ。キャバレーでホステス相手に鼻の下を伸ばして呑んでいたことがばれると、舞子は怒るだろうな。

「今、奥さんのこと考えていたでしょ」

「え?」

「やっぱり図星だな。顔を見ればわかるよ。こういうところでは奥さんのことは忘れた方がいいよ。わたしの横にいながら、奥さんのこと考えるなんて、わたしに失礼よ」

ミサトは少し顔を傾けてお茶目に言ってみせた。そして、右手の人差し指で、俺の鼻の頭のところを、ちょこんとつつきながら「ダ、メ、だ、よ」。と言った。

まるで、ドラマのヒロインを演じたようなミサトの演出に、俺は思わず笑ってしまった。

ミサトも俺に合わせて大笑いした。面白い子だ。

「奥さんのこと、好き?」

 その質問に一瞬、なんて答えようかと思った。少し考えて正直に答えた。

「そりゃあ、好きだよ」

「へえ~、焼けるわね。そんな風に、堂々と、奥さんのことを好きだって言う人、あんまりいないよ。ここでは、奥さんのことは忘れてね」

そう言うとまた、人差し指で二回、俺の鼻の頭をちょんちょんとつついてみせた。俺は思わず笑ってしまった。

俺たちはとりとめもない話をたくさんした。とにかく俺はミサトと一緒にいるのが楽しかった。ミサトも俺といるのが楽しそうだった。こういう女と付き合ってみたいな。ミサトと腕を組んで街を歩いているところを想像してしまった。

「さあもう帰るぞ、終電がなくなる」

 佐々木はホロ酔い口調でニコニコしながら言った。酔っても、しっかりとしているのは佐々木の良いところだ。

「もう、そんな時間か?」

腕時計を見ると、十一時三十分だった。電車の時間がやばい。ミサトと離れるのは、すごく残念だったが、仕方なかった。

「また来てくださいね」

そういうミサトの顔が少し寂しそうに見えた。

「うん、また来るよ」

自分の喋り方が、少し甘えたように言っているのに気がついて、心の中で笑ってしまった。

俺は帰りの電車。窓ガラスからは、街の灯り。車内には、酔っぱらって眠っているオヤジや、疲れきった若者やOL。さっきまでのキャバレーの中での、夢のような楽しい時間から一気に覚めてしまう現実がある。夢の時間の余韻にひたろうと、俺は目を瞑ってみた。ミサトとの楽しい時間。「可愛いかったなあ」と、思わず口に出してしまいそうだった。

ふと、ポケットの中に手を入れると、何かが入っているのに気がついた。あの石だ。俺は石を握りしめた。石を握っているとなんだか落ち着く。つるつるとした、とても気持ちよい触り心地だった。


家に着くと、舞子が不機嫌そうにしていた。

「遅かったじゃない」

「ごめん。ごめん」

「それにしても遅い」

「うるさいなあ。俺だって、たまにはこんな日もあるさ」

舞子がしつこく言うから、俺は少し面倒くさく感じた。

「そんなに、怒らなくてもいいじゃない。わたし、寝ないで待っていたのに」

「別に怒ってないだろう」

「怒っているじゃない」

舞子はとてもできた妻だった。夫の自分がいうのもなんだが、誰からも愛される、気だての良い女だと思う。昼間は保育所で働き、夜はしっかりと主婦をこなしている。俺より三つ年上の舞子は、いつも笑顔を絶やさない、柔らかくて明るい、まるでお姉さんのような存在だった。

そして、自分達は仲の良い夫婦だと、正直そう思っていた。俺は友達や親戚にも「自分達は仲が良い夫婦」だと、恥ずかしくもなく言うことができた。

しかし、最近、生活の中に物足りなさを感じている。舞子に不満があるわけではない。子供たちともうまく行っている。でも何か足りない。それは、なんだろうかと考える。でも、なんとなくは気がついている。いや、さっき気がついたのかもしれない。ミサトとの楽しい時間。ずっと舞子を愛してきたけど、舞子とは違う、他の女への欲求。俺が感じる物足りない物とは、そういうことだったのかもしれない。

俺は寝床の中で、ミサトの可愛い笑顔を想像した。そして、彼女と二人きりでいるところを想像した。そして、彼女とベッドの中で裸になって抱き合っているところを想像した。そして、彼女とキスを交わしていた。横ですやすやと寝ている妻に対しての罪悪感を、心の片隅に置きながら。

それから数日後の夜、俺は一人であのキャバレーに向って歩いていた。

ここ数日、仕事中もミサトのことが頭から離れなかった。ミサトのことを想像する事で、さらに彼女への思いを強くしていったのだと思う。ミサトの笑顔やミサトの声を想像していううちに、もう一度会いたくて仕方がなくなった。とうとう我慢ができなくなった、まるで、思春期の少年のようだ。

俺はキャバレーの前まで来ると、携帯電話を取り出し、自宅に電話をした。

「ごめん、今日も佐々木とちょっと呑んでくるわ」

 俺は舞子に、嘘をついた。
キャバレーの扉を開けると、先日と同じように、金色のジャケットの店員が笑顔で出迎えた。

「ミサトちゃん、いますか?」

「はい。ミサトちゃんですね」店員はニヤッと笑ってみせた。

金曜日というのもあるだろう、前回、来たときよりも、客が多かった。音楽はサザンオールスターズの「愛しのエリー」が流れていた。「勝手にしやがれ」じゃなかったので、少し残念に思った。

金色のジャケットの店員は、他の客を接客しているミサトのところに行き、耳打ちをした。ミサトは俺を確認すると、その客に何かを告げて立ち上がり、こちらに歩いて来た。ミサトが近づいてくる。俺の胸のあたりが熱く大きく高ぶった。

俺を見るとミサトはやさしく微笑んで「今日も来てくれたの。嬉しい」と言った。少しだけ社交辞令のようにも感じたけど、ミサトは俺の横に座ると、体をべったりとくっつけてきたので、俺はすぐに舞い上がってしまった。ミサトの肌が俺の肌に触れて、俺の胸のあたりはドキリと跳ね上がって、さらに熱くなった。

「水割りでいい?」

「うん」

ミサトはウイスキーのボトルを手にとって、グラスに注ぎはじめた。俺はその横顔にみとれる。

「今日も、可愛いね」俺は彼女の気を惹こうと思い、使い慣れない言葉を言った。少し緊張していた。

「ありがとう」ミサトはそう言うが、先日とは違って、まだ少し、よそよそしい雰囲気が漂っていた。二人の間が、前回より距離があるような気がした。もしかしたら、俺のこと、よく覚えてないのだろうか。そんな風にも考えてしまう。彼女の横顔にも、少しだけ固い表情が感じられて、俺は、ほんの少ししらけてしまった。

俺はウイスキーの水割りを一気に飲み干した。

「あれ、もう飲んだの。すごいね」
すぐに空になったグラスを見てミサトは言った。そして、俺の持っていたグラスを手に取ってウイスキーを注ぎ足し、水で薄めて、ガラスのマドラーでカラカラとかき混ぜると俺に差し出した。

そのグラスを受け取ろうとして、少し体勢を変えたときだった。ポケットの中から何かが飛び出し、床に転げ落ちた。

「何か落ちたよ」ミサトはそう言って、体を屈めると、足下に落ちたその何かを拾い上げた。

「何これ?」

あの石だった。

「あ?」

「何、これ?」

ミサトはきょとんとして、人差し指と親指で石の真ん中あたりを、つまんで顔に近づけたが、店内が暗くてよく見えないようだった。

「あ、ごめん。それは石」

「石?」

ミサトが少し不思議そうな顔をした。

「この石は、少し前に道ばたで拾ったんだ。そうそう。ちょうど、前回、この店に来た日の朝だったかな、公園の中で拾ったんだ。ここじゃ、暗くてわかりにくいけど、すごく奇麗な石なんだよ。あれから、ずっとポケットに入れてた。触っていると、落ち着くんだよね」

「へえ~、君野さんて、おもしろいね」

そう言ってミサトは、店内の照明に石をかざして、その色や形を確かめようとした。

「確かに奇麗な色をしているね」

 そう言ったミサトの動きが少し止まった。

「あれ?」

ミサトは怪訝な表情を浮かべて、少し固まった。

「どうしたの?」

「ちょっと待って」

そして、数秒の間、何も言わずに、石を見つめていた。

「どうして・・・」

「何が?」

「でも、やっぱりそうだわ」

俺はミサトが何を言いたいのか、さっぱりよくわからなかった。
すると、ミサトが思わぬことを口にした。

「この石は私が子供の頃持っていた石だわ」

「え?」

「そう、この石は、小学校のときに、母と河原で遊んでいて、見つけた石よ」

「え?」ミサトは面白いことを言い出した。

「間違いないわ。ここにアイ(AI)って書いてあるでしょ。これは私が彫ったの。私の
名前を彫ったのよ。私の本名はアイ(AI)って言うの」

ミサトは夢中になって話し始めた。

「ずっと机の引き出しにしまっていたの。そして、母が亡くなって、引っ越しすることになって、そのときに、この石がどこかに行っちゃったの。たぶん、引っ越しのときに、いらない荷物の中にまぎれて、誤って捨ててしまったんだろうって思っていたわ。母との思い出のような石だったから、無くしたときは、すごく落ち込んでいたことを覚えているわ」

そう言い終わると、石から目を離して、今度は俺の目を真っすぐに見つめた。

「でも、どうしてこの石を、君野さんが持っているの?」

「だから、道に落ちていたのを、拾ったんだよ」

ミサトは再び、石に目をやった。

「不思議。こんなことがあるなんて」

本当に不思議な話だ。俺は、ミサトが冗談を言っているかと思ったので、改めて尋ねた

「本当に?この石は君が持っていた石なの?」

「間違いないわ」

そして、ミサトは真剣な表情で俺の目を見つめた。

「こんな不思議なことがあるなんて、もしかしたら、君野さんと私は、赤い糸で繋がっているのかな」

石のことがあってから、ミサトの様子が大きく変わった。俺たちの心は一気に接近したかのようだった。ミサトは石にまつわる思い出を俺に話してくれた。そして、自分の生い立ちや家族のことを話してくれた。

ミサトは、小学生三年生のときに母親を交通事故で亡くすと、父方の祖父の家に引っ越しをした。その祖父も七年前に亡くなり、今は父親と妹と三人で暮らしているようだ。

高校二年生のときに、アルバイト先のファミレスの店長と付き合っていたことや、卒業式のときに、三人の同級生から告白されたエピソードなどの思い出話をしてくれた。

俺は、無邪気に、面白おかしく自分のことを話すミサトに、ますます惹かれた。そして亡くなった母親との思い出を語るときの、ミサトの寂しそうな表情を見たときに、誰にも見せていない隠れている一面を見たようで、嬉しさと愛おしい気持が入り交じった。

ミサトとの会話は尽きることがなかった。ミサトも数杯の水割りを飲んで少し酔ったのだろう。俺の肩に顔を埋めて身を委ね、俺の手を強く握りしめた。俺は、その細くて温かい手を握り返した。

ふと気が付くと、テーブル越しに、金色のジャケットの店員が立っていた。俺はミサトと体を寄せ合っている様子を見られたことが気まずかったが、店員は、特に気にしてもいないようだった。

「お客様。そろそろ閉店ですので」

時計を見ると、もう既に十二時を回っていた。最終電車に間に合わなくなってしまう。

「それじゃあ俺は帰るね」

俺はテーブルの上に置いていた石をミサトの手のひらに重ねた。

「この石は君が持っていてね、君が大切にしていた石だから」

ミサトは「ううん、この石はあなたが持っていて。私の分身だと思って」と、言い返して、石を俺の手の中に包み込むようにして、そっと返した。

そして、何かを思い立ったように、俺の目をじっと見つめると、ミサトはか細い声で

「もう少し、一緒にいて欲しいの」と言った。

閉店後、俺とミサトは近くのコンビニエンスストアで落ち合って、それから午前二時まで、ラブホテルのベッドの上で過ごした。

俺が妻以外の女とベッドを共にしたのは、結婚以来、初めてのことだ。セックスの後、俺たちは何も話さずに、しばらく裸のまま体を寄せ合っていた。俺は、ずっと、こうやってミサトに触れていたかったが、時計が二時半になるのを確認すると、やっぱり無理だと思った。

「もう、そろそろ帰らないと」

俺たちがラブホテルを出ると、辺りには人の気配など何もなかった。少し歩いて国道まで来ると、自動車は、まだ、たくさん走っていた。その中からタクシーを見つけると、俺はすかさず手を上げタクシーを停めた。そしてミサトをタクシーに乗せて、俺たちは別れた。

ミサトが乗ったタクシーが見えなくなると、俺は再び別のタクシーを拾った。
タクシーの中で、俺はミサトの裸を思い出した。まだ、ミサトの感触が体の記憶に残っていて、そのことが心地よく感じられた。容姿や笑顔だけでなく、ミサトは思った以上に優雅で知的な女性だ。そして繊細で感受性の高い女性でもある。俺はミサトと寝た満足感でいっぱいだったが、すぐに、妻への罪悪感が入り交じってきた。

タクシーが家に近付くと、不安な気持ちでいっぱいになった。舞子にばれはしないかという不安だ。俺は大きく息を吐いて、手に持っていた石を見つめた。石には「AI」と彫られてあった。それは、ミサトの本名の「愛(AI)」。しばらく石を見つめて、カ

バンの中にそれを忍ばせた。これはミサトの分身だ。

家の扉を開けると、舞子が、眠い目をこすりながら玄関に現れた。俺は舞子と顔を合わせるのが気まずくて、少しうつむき加減で、靴を脱ぎ、家に上がった。その仕種を、舞子は怪訝に思いはしないだろうか。

「こんな時間まで何をしていたの?」舞子の声を聞くと、それほど不機嫌そうでもないようだ。

「ごめん。明日は休みだし、ついつい、佐々木と呑みすぎちゃって」
当然だが俺は嘘を突いた。

「もう、三時半だよ。どうやって帰って来たの?」

「タクシーだよ。タクシー。ごめん、ちょっとトイレに行っていいかな」と言い、その場を逃がれるために急いでトイレに駆け込んだ。俺は便座に座りこんで、言い訳を考えた。

数分後、俺がトイレから出て来ると、舞子はトイレの前に立っていた。そして、俺の顔を覗き込むようにして言った。

「どうしたの?」

「どうもしないよ。トイレずっと我慢していたから」

俺は、自分がさっきまでミサトと寝ていたことを、舞子に気づかれるかと思うと不安だった。

舞子は怪訝な顔で「結構呑んだの?」訊いた。

「うん・・・。俺、シャワー浴びるわ」

俺は舞子との会話を避けて、今度は風呂場に逃げ込む事にした。
舞子は、それ以上深く追究することはなく「着替えを持って来るね」と言うと、寝室のある二階に上がった。

俺はシャワーを浴びながら、もしかしたらミサトの匂いが残っているかもしれないと思い、丹念に体を洗った。

風呂場から出ると、まだ、舞子はテーブルの椅子に座っていた。ずっと俺を待っていたようだが、俺は「寝るよ」と言って、頭をタオルで拭き取りながら、二階の寝室に行き、すぐに寝床に入った。舞子が隣に入ってきたので、寝たふりをしたが、舞子は何も話しかけてこなかった。

先に眠りについたのは舞子の方だった。俺は体を起こして、舞子の寝顔を見つめた。健やかな寝顔はまるで子供のようだった。そして、舞子の寝顔を見ながら、ミサトとのベッドの中の行為を思い出したが、すぐに頭を振って、その映像を頭の中から消し去ろうとした。だが、簡単に消し去ることはできそうもなかった。

どんなに上手くいっている夫婦であっても、一度や二度は、こういうことがあるものだろうか。俺は今までずっと舞子を愛してきた。それはずっと変わらないだろう。例え、ミサトとの関係が始まったとしても。

俺はベッドから抜け出て、カバンの中から石を取り出して、しばらく眺めた。そして、机の引出しの中にしまった。

俺は、キャバレーでミサトに会う度に、閉店後はラブホテルで彼女を抱いた。彼女の肌はつるつるしていた。唇もしっとりとしていた。俺たちは舌を絡めてお互いの体を激しく求め合った。セックスを終えると、疲れて、抱き合ったまま、そのまま眠ってしまい、気がついたら深夜ということも多かった。
その度に舞子や子供たちへの罪悪感でいっぱいになるが、俺は欲望を止めることはできなかった。

俺はミサトといるところを会社の人間に見られないように気をつけていた。特に、舞子やミサトと顔見知りの佐々木には気をつけていた。何度か家に遊びに来て舞子をよく知っている佐々木に、ミサトとできてしまったことを知られるのは、さすがに気まずかった。

俺とミサトはよく石の話をした。石が二人を引き合わせたと、よくミサトはそう言った。

「じゃあ、あの時に、石がポケットから転げ落ちなかったら、君は僕のことに興味を持たなかったの?」と、聞くと、

「それは、わからないわ」とミサトは笑った。

俺たちは、付き合う上での約束事を決めた。それは、ミサトからは俺の携帯電話に電話をかけないという約束だった。舞子にばれることを恐れて、俺が一方的に決めたルールのようなものだ。ミサトは、それが少し不満であったが、そのルールを破ることはなかった。

俺は、ミサトと家族を両立していくことを決めていた。身勝手な話だ。ミサトはそれを受け入れてくれたようだ。

もちろん、俺の浮気に気がつかずに、いつも笑顔で接している舞子に対して、すごく申し訳ない気持ちになる。ミサトに会うまで、舞子を好きだという気持ちが揺らいだことはなかった。でも、ミサトに出会ってから、自分の気持に改めて問いかけることがあった。もしかしたら、ミサトと結婚した方が、本当は幸せだったのではないだろうか?ミサトとのセックスの方が刺激的ではないだろうか。だが、そんなことを考えても、最後には、舞子ほど自分に必要な人間はいないと感じた。長年連れ沿った妻。そして子供達。家族。それだけは絶対に壊したくない。 

しかし、今の俺には、ミサトとの情事ほど魅力的なものはなかった。

ある夜、ミサトはベッドの上で俺に質問をしてきた。

「奥さんと私と、どっちが好き」

嫌な質問だった。その質問は俺を苦しめた。俺はその質問に答えなかった。ミサトのことは、もちろん好きだが、舞子のことを嫌いになったわけではない。だから、こういう

質問をするミサトが憎らしく感じた。

俺を困らすミサトの発言は、その日から徐々に増えて行った。

あるときは「もしも、奥さんと別れてって私が言ったら、あなたは、どうする?」と聞いてきた。

あるときは「今日は朝まで一緒にいて欲しい」と、ねだってきたこともあった。
その度にとぼけてみせたが、その頃から俺の気持ちの中に、重たいものがじわじわと蓄積されていたようだ。

俺は、できるだけ家に帰るのが遅くならないように、気を配るようにしていた、やはり、それでも、時々深夜になることもあった。その都度、残業だったとか、佐々木と呑みに行ったとかと、舞子に嘘をつく度に胸が苦しかった。

ミサトが俺を独占したいという態度が目立ってきたことや、家族への嘘の積み重ねを続けてきたことで、俺は大きなストレスを溜めていたようだ。そして、とうとう、浮気を続けることに、精神的な疲れを感じるようになっていた。

俺と同じように不倫や浮気で苦しんでいる男は、世の中にたくさんいるだろう。苦しみ

は浮気の代償で、不貞を繰り返す男に与えられる試練だとも理解はしていた。
そんなある夜、夕食の後、自宅でテレビを見ながらくつろいでいると、テーブルに置いていた携帯電話が鳴った。見ると、それはミサトの電話番号だった。俺は慌てて電源を

切った。幸い、舞子は近くにはいなかったが、かなり動揺した。
俺はそのことでミサトを責めたけど、ミサトは「ごめんね。間違えちゃって」と笑ってとぼけた。俺は、そんなミサトに少し苛ついた。

そんなある日、俺が深夜に家に帰ると、テーブルにうつむいて座っている舞子の後ろ姿が目に入った。どうやら、俺が帰宅したことに気がついていないようだった。舞子は顔を両手で覆っていた。

「どうしたの?」と俺が言うと、舞子はびっくりしたように顔を上げた。どうやら舞子は泣いていたようだ。俺は、涙に気がついてない振りをして「寝るね」と言って、二階に上がった。

舞子の涙を見たとき、俺は、ミサトとの関係は、もう終わりにしなければ手遅れになると思った。

おそらく舞子は俺の浮気に気がついているのだろう。だが、そのことを言い出さずに、ずっと我慢しているのだと思った。

思えば、舞子と結婚をしてから、他の女のことなど一度たりとも考えたことがなかった。当然、浮気などしたこともなかった。そんな自分がミサトと肉体関係を持ち、付き合うようになった。

いったい俺は何をしていたのだろう。俺にはこんなに素敵な妻がいるのに、どうしてミサトと関係を持ってしまったのだろう。もう、これ以上、ミサトと付き合うと、取り返しがつかなくなるだろう。ミサトとのことは、もう終わりにしなければならない。そうしないと家族の関係が壊れてしまうだろう。
俺は、ミサトとの出来事を後悔した。そして、考えた末、結論を出した。もう、ミサトには会わないようにしよう。

舞子には、悪いことをしてしまった。ごめんな、舞子。心の中で、つぶやいた。

舞子の涙が家族を救ってくれたのだ。

次の朝、カーテンを開けると、外は雲一つない晴天だった。二階の寝室から階段を下りてくると、台所で、目玉焼きを焼いている舞子の姿が目に入った。それはいつもの休日の光景だ。

「おはよう」

「おはよう。御飯とパンどっちにする?」

「パンにする」

舞子はいつもと変わらない様子だったが、俺は普段よりも意識して明るく振る舞った。

「子供たちは?」

「まだ、寝てるよ」

「そうか、今日はみんな、用事とかあるのかなあ?」

俺は、まるで今思いついたように、昨晩から考えていたことを口に出してみた。

「久しぶりに家族でどっか遊びに行こうか」

「え?」

「久しぶりにボーリング大会なんて、どう?」

 舞子は俺の思いがけない計画に、無邪気に反応を示した。

「いいねえ~。でも、どうしたの、急に」

「なんとなく思いついたから」

「でも、なんか嬉しいなあ。久しぶりだね。じゃあ、子供達を起こさないと」

舞子は二階に駆け上がった。

昨晩のことがあり、俺は心を入れ替えると決めた。ミサトとの関係をリセットして、新たな生活のスタートを踏み出すのだ。俺はこの大切な妻や家族を失う訳にはいかない。
一瞬、ミサトの顔が頭の中に現れたが、俺は頭を左右に大きく振り、その映像を消し去った。

久しぶりの家族でのボーリングだった。俺は最悪のスコアを叩き出して、息子に十七年間守り続けた家族ボーリング大会のチャンピオンの座を譲り渡した。昼食は国道沿いのファミリーレストランに行き、子供達は「デミグラスハンバーグ定食」を注文し、俺と舞子は「日替わりランチ」を注文した。

食事をしながら、主に舞子が聞き役となり、学校の勉強やクラブ活動の話題で盛り上がった。俺は嬉しそうに話をする子供達の様子を観察した。

高校二年の息子は少しふてぶてしくなった。それでも、まだまだ可愛いいところもある。中学一年の娘は最近おしゃれを気にする年頃になった。親としては、少し嬉しいようで、少し不安のような気持ちだ。いずれは「お父さん、臭い」とかって言って、口も聞いてくれなくなるのだろうか。そんなことを思いながら、妻や子供たちの様子を心地よく眺めていた。

食事のあと、ショッピングセンターで服や雑貨などを買い物した。夕食は家で簡単に済ませようという話になり、スーパーのお惣菜コーナーに立寄って半額に値下がりしたお寿司を買うと、夕方の混み合う国道を避けて家に帰った。穏やかで、すがすがしい休日だった。

家族がいることに、改めて幸せに感じる一日となり、これからはもっと、家族との時間を作っていきたいと思った。

ミサトと会わないことを誓ってから二週間ほど経ったとき、着信記録にミサトの番号が残っていた。記録を見るとお昼頃に何回もかけていたようだ。放っておくわけにはいかないと思いながらも、もう、このまま自然に忘れてしまった方が良いのではと思って時は過ぎていた。電話をして別れを告げようと思った日もあったが、電話をしなければ、お互いの記憶から消えていくことも時間の問題なのかもしれない。

時が経つことで、良い思い出も、悪い思い出も、鮮明さを失ってゆく、そして、気持ちというのも、時間の経過により変化して行く。仮にどんなに大切な人であったとしても、時の経過を利用することで、その人への気持ちが薄れてゆくものだ。

もちろん、会わずに、ミサトに別れを告げることは、ミサトに対して失礼な行為だとはわかっていた。だが、ミサトに会って別れを告げる決心もつかないまま、ずるずると時間が経過していたのも事実なのだ。ただ、そういう罪の気持ちさえも、時の経過で薄らいで行くことも、また事実だろう。

その日、俺はいつも通り会社に出かけた。午前中は部下の描いたポスターのラフデザインをチェックした。昼食の後、イベントのチラシの再チェックを済ますと、歩いて二十分ほどのところにある親会社に行き、広告の担当者と打ち合わせをした。打ち合わせの内容は、新しく発売される化粧水のチラシの件で、その話は、すぐに片付いたが、担当者とテニスの話で盛り上がり、気がつくと、時計は六時五十分を打つところだった。
俺は、会社に戻らずに真っすぐに家に帰れば、家族と一緒に夕食ができると思いつき、まだ陽が沈みきっていない街を歩きながら、部下に電話をして、直接、家に帰る旨を伝えた。

親会社から駅までは、歩いて十五分ほどしかないが、歩いているうちに、すぐに暗くなり、辺りにはネオンや街灯が灯り始めた。
喉が渇いたので飲物を買いたいと思ったら、丁度、道路脇にコンビニがあったので、そこで買い物をしようと思った。

そのとき、コンビニから出て来た女を見て俺は驚いた。

ミサトだった。

ミサトも俺に気がついた。ミサトは、一瞬、顔を曇らせたかと思うと、すぐに、俺に笑みを作ってみせた。

俺たちはコンビニを出入りする客の邪魔になっていたので、出入り口付近から少し移動した。俺は突然のミサトとの再会に意表をつかれて頭の中が少し空になってしまっていたが、なんとか頭を回転させて、言葉を口にしなければならないと思った。
出て来た言葉は「久しぶり」だった。

そんな俺の言葉につられたように「うん。久しぶり」とミサトも言葉にした。
俺は次に切り出す言葉が見つからなかった。ミサトも何かを言おうとしているが、うまく言葉にできないようだった。

俺の気まずそうな様子を察して、再び口を開いたのはミサトの方だった。

「家に帰るところ?もしかして仕事中?」ミサトがそう言ったので、俺は、その言葉に答えた。

「さっきまで、打ち合わせをしていて、もう会社に寄らずに、家に帰ろうと思っていたんだ」

「そっか」

「うん」

そして、また、しばらく沈黙があった。なかなか話す言葉が見つからない。

「もしかして、これから出勤?」

「ううん。今日は休み。買い物に行っていたの」

そう言うと、ミサトはデパートの紙袋を見せた。袋の中には、洋服が入っているようだった。

「実はね、この辺を歩いていると、あなたに会えるような気がしたの」ミサトは敢えて、お芝居の台詞のような言い方をした。

そして「なんてね」と言葉を付け足した。

「どうして、何も連絡をくれなかったの?」

俺の目を少しだけ見てから、うつむきかげんでぽつりと言った。

そのとき、左折してきた自動車のヘッドライトが俺たちを照らした。俺たちの影が大きく道路に現れた。俺はミサトの背中に軽く手をやって、道路脇に体を避けた。

「少し歩こうか」

この辺りは人の行き来が激しく話がしにくかった。俺たちは駅の反対側の住宅地に向かって、歩いてみることにした。

しばらく無言で歩いていたが、住宅地の中の細い道路で立ち止まり、先に口を開いたのはミサトの方だった。

「もう終わりってこと?」

ミサトの言葉に俺は何も言えなかった。

「ずるいよね」

俺は言い返す言葉を探したが、それを見つける前に、ミサトが言葉を続けた。

「あなたと私は、ずっと一緒にいれると思ってたのに」

ミサトは俺の目を深く見つめた。

「いつかは奥さんと別れて私のところに来てくれると思っていたのに」

ミサトは溜まっていた思いを吐き出すと、もう一つ言葉を付け加えた。

「お願い。あなたとずっと、一緒にいたいの・・・」

少し離れた家の窓から顔を出して怪訝そうにこちらを見ている中年の女に気がついて、

そちらに顔を向けると、その女は窓を閉めた。

「ここは、落ち着かないね」

俺は場所を変えたいと思い、また歩き出すと、ミサトは仕方なく俺に着いて来た。
俺は小さな公園を見つけた。滑り台とブランコが暗闇の中でも確認できた。その公園の中の入り口付近で、俺たちは立ち止まり向き合った。
俺は言葉を絞り出した。

「またお店に遊びに行くね」こんなことしか言えなかった。

その場を取り繕うかのような、意味の無い言葉だ。情けなかった。ミサトはうつむいていた顔を上げて俺の目をのぞき見た。俺が口に出した言葉の意味を頭の中で整理しているようだった。

「もしかして、もう、終わりってこと?」

俺は何も答えなかった。

おそらく30分ほど、俺たちはそこに突っ立っていたのかもしれない。そして、最後に
ミサトが言ったのは、こんな言葉だった。

「もう二度と顔を見せないで」

しっかりと冷たく言った。そこには、もう、何も無かった。その一言で、彼女は俺への感情を捨てたと思う。そして、さらに鋭く冷たい視線を俺に向けると、軽蔑するかのように睨みつけた。

ミサトはくるりと背中を向けると、歩いてきた方向に引き返した。その背中からは未練など微塵も感じられなかった。もうミサトは振り返ることはないだろう。数分後、ミサトは、暗闇の中に溶け込むように消えて行った。

ミサトの冷たい表情が、しばらく頭に焼き付いて離れなかった。

俺はことの結末をかみしめた。

「終わってしまった・・・」

ミサトは俺の心に虚無感のようなものを残した。

自分が望んだ結末であったのだが、ミサトに冷たく切り捨てられたとき、まるで、社会のすべてから見放されたような、あるいは、何も無い砂漠に突然投げ出されたような、そこに残ったのは、そんな虚無感のような物だった。俺はしばらくそこに立ち尽くしていたが、時間を見計らってから、駅へと歩いた。

俺は自分が情けなかった。自分が身勝手な、ずるい男だと思った。そして、男としての器の小ささを感じ、恥ずかしさでいっぱいになった。
電車の窓ガラスごしに夜の町を眺めながら、大きなため息をついた。まだ、ミサトの冷たい表情が頭から離れなかった。

俺は自宅の門塀の前に立つと、夜の暗がりから浮かびあがるマイホームをじっくりと眺めてから、大きく深呼吸をして、家の扉を開けた。

「ただいま」

キッチンで食器を洗っていた舞子は「おかえり」と言いながら慌てて手をふくと、ろくに俺の相手もせずに、二階の寝室に駆上がった。一瞬、俺は舞子に愛想をつかされたかと思ったが、舞子はすぐに何かを手に掴んで階段を駆け下りて来た。

舞子が手にしているもの。それは石だった。

「これ、どうしたの?」

舞子は持っている石を俺に見せた。

「え?」

「これ、どうしたの?」

舞子の持っているのは、あの石だった。ミサトの分身。

俺は舞子が持っているのを、間違いなくあの石だと確認すると「それは、俺が拾った石だけど」と、素直に答えた。

「ごめん。悪気はなかったんだけど、あなたの机の引出しを開けてみたら、これが出て来たの」

俺は、やはり、ミサトとのことがばれてしまったのかと思った。

「この石、どうしたの?」舞子は少し興奮気味で俺に詰め寄った。

「だから、これは、だいぶ前に、駅に行く途中で拾った石だよ。きれいな石だったから」

「嘘でしょう・・・」

「え?何が」

「不思議で仕方がないわ」

俺は舞子が何を言いたいのか、さっぱり、わからなかった。

そして、舞子は大きく息をすると、今度は落ち着いて話し始めた。

「この石、私が小学生の頃、海岸で拾った石なの」

「え?」

「ほら、ここにローマ字で名前が彫ってあるでしょう」

「え?」

俺は少しこんがらがってきた。

「ほら」

舞子は、そのイニシャルの彫られている位置がよく見えるように、俺の顔に石を近づけた。

そこには「AI」と書かれてあるはずだ。それはミサトの本名の「愛(AI)」を意味している。

「AI(エーアイ)と書かれているよね。それは知っているけど」

俺は石をほとんど見ずに、そう答えた。

「違うよ。ほら、良く見て、ここにはマイコ(MAIKO)って書いてあるのよ。ほら」

そんな筈はない、何を言っているのだろうか、そこにはAIと書かれてあるんだよ。俺はそう思ったが、改めて石に書かれた文字を読んでみようと思い、石に目を近づけた。すると、不思議なことに、以前には気がつかなかった文字が、俺の目の中にうっすらと浮かび上がってきた。

言われてみれば、AIの前にMがあり、AIの後ろにKOと書いてあるような。
そして、俺は舞子から石を奪い取ると、目をこすり、もう一度、石に書かれた文字を確認した。

そこにはまぎれもなくMAIKOと文字が彫られていた。

俺はわけがわからなくなった。

舞子は、呆然としている俺から石を取り返して、再び自分の手のひらに乗せると、まじまじとその石を見つめた。そして、もう一度、俺に尋ねた。

「これ本当に道で拾ったの?」

舞子の言葉に、俺はこくりと頷いた。

「私、いつも、この石をカバンの中に入れて持ち歩いていたのに、ある日、カバンの中から無くなっていて・・・。家とか学校とかを探してみたけど、どこにも無かった。たぶん、外を歩いているときに、どこかに落としたのだと思っていたわ・・・。大切にしていたから、無くしたときは、すごくがっかりしたけどね・・・」

そう言うと、舞子は石から目を放し、俺の目を見つめて、こう続けた。

「三十年も前のことなのに、その石を、あなたが拾ったなんて、いったいどういうことかしら。すごい、偶然よね、不思議で仕方がないわ。こいうことってあるのかしら。運命を感じるわ」

俺は狐に摘まれたような感覚に襲われた。

舞子の手のひらの上の石は、まるで俺をあざ笑うかのように、ただ黙って、そこに乗っていた。

おわり